天満八軒とは?大阪天満宮の裏にあった演芸街を歩く|吉本興業の原点と繁昌亭へ

天満宮

大阪天満宮の北門を出たところに、上方落語の寄席・天満天神繁昌亭があります。その建物の前に立つ「天満八軒歴史顕彰板」は、この付近がかつて演芸の街だったことを伝えています。

天満八軒(てんまはちけん)は、一軒の劇場名ではありません。大阪天満宮の裏手に寄席や芝居小屋が集まった一帯の呼び名です。落語だけでなく、講談、女義太夫、新内、浪花節、芝居。明治から大正にかけて、歩いて回れるほど近い範囲で、異なる芸がそれぞれの客を迎えていました。

しかもこの街の一角にあった「第二文芸館」は、吉本興業が寄席経営を始めた場所として知られています。いまの繁昌亭から、あの「花月」へとつながる原点が天満にあるのです。

ただし、現在の街に昔の小屋が八軒並んでいるわけではありません。「八軒」という名前の由来や小屋の数、吉本の創業年にも、少し丁寧に見ておきたい点があります。その歴史を、いま歩ける場所と重ねながらたどります。

1. 天満八軒はどこにあった?大阪天満宮の「裏門」を目印に

中心として語られるのは、大阪天満宮の北側です。現在の大阪市北区天神橋2丁目、大阪天満宮の北門から天満天神繁昌亭が建つあたりを思い浮かべると、位置関係がつかみやすいでしょう。

古い資料には「天満天神裏」「天神裏門」「天満裏門」「新門通り」といった呼び名が出てきます。現在の地図にそのまま同じ町名が並ぶわけではありませんが、どれも天満宮の北側で興行が行われた場所を考える手がかりです。明治の記録に現れる「大工町」も、この裏門付近にかかわる地名でした。

大阪天満宮の南側には表大門があり、天神橋筋商店街から境内に入ると、正面の社殿へ向かいます。そのまま北へ回れば、繁昌亭のある北門側へ。参拝の表側から、かつての演芸街があった裏側へ抜ける短い道です。

いまは落ち着いた神社の周囲も、昔は寄席へ入る人、芝居を観る人、門前を通る人の行き先が重なる場所でした。天満八軒の面白さは、劇場が町から離れた専用区域にあったのではなく、信仰や商いのすぐ隣に娯楽があったことです。

2. 「八軒」は八つの寄席が固定で並んだ、という意味ではない

天満八軒と聞くと、「決まった八軒の寄席があった」と考えたくなります。実際はもう少し複雑です。

この呼び名は、もとは天満宮の裏手にあった花街の「八軒茶屋」、八軒の引手茶屋に由来すると説明されています。18世紀末ごろの境内図にも「八けんちゃや」という表記が見られます。その後、明治期になると、寄席や芝居小屋が集まる興行街を指す呼び名として広まっていきました。

小屋の数は時代によって変わります。1883年の寄席業者の取り決めに出てくる小屋は八軒。一方、明治後期の記録には九軒前後に数えられる時期もあります。名前が「八軒」だから、同じ八つの小屋がずっと続いたわけではありません。

また、「天満八軒」という名の一つの劇場があったわけでもありません。これは一帯を指す通称です。旧地名を現代の建物一棟に置き換えず、北門の周りにいくつもの入口があった街として見ると、当時の姿に近づけます。

江戸の境内から、明治の裏門へ

天満宮の周辺で芸が披露される歴史は、明治になって突然始まったものではありません。

江戸後期には境内に話芸の常打ち小屋があり、昔噺や講釈が行われていました。1854年の境内に関する絵図には、新門通りの北側に昔噺の小屋が記されています。

明治初めに境内の使われ方や範囲が変わるなか、興行の中心は北門の外側へ移っていきます。神社の内側で人を集めた芸が、門の外の街へ場所を広げた。この移り変わりが、のちの天満八軒を考えるうえで大切です。

3. 落語だけじゃない。天満八軒の小屋に並んだ芸

天満八軒を「昔の落語街」とだけ呼ぶと、街の半分ほどを見落としてしまいます。1903年ごろの天神裏門について、当時の新聞記事を調べた研究では、次のような小屋と芸が紹介されています。

小屋の名紹介された主な芸
林家席桂派の落語
宝来亭講談
南歌久席・末広席女義太夫
八蝶席新内
国光席浮かれ節(のちの浪花節・浪曲につながる芸)
山口席貝祭文
天満座芝居・演劇

表では南歌久席と末広席を一行にまとめていますが、小屋は別々です。これで八つの小屋になります。ただし、これは一時期の記録をたどったもの。

ほかの年の顔ぶれまで、まったく同じだったとは限りません。席の名前や演目も、時代とともに変わっています。

林家席の噺を聞いた夜と、国光席の節回しに耳を傾けた夜は、同じ「寄席に行く」でも違う楽しみだったはずです。芝居の天満座は小さな話芸の席とは規模も違いました。

落語家だけの街ではなく、声、語り、音楽、芝居が競い合う街だったのです。

小屋ごとに芸を分けていた理由

1883年、大工町の寄席業者が取り交わした規約からは、芸の種類を分け、同業者どうしの競合を避けようとした様子が読み取れます。

落語、講談、女浄瑠璃、浪花節、諸芸が、それぞれの席で客を迎える。いまの商店街で業種の違う店が並ぶように、天満八軒にも小屋ごとの看板がありました。

競争がなかったわけではないでしょう。それでも同じ通りに多くの小屋が集まれば、客には選ぶ楽しみが生まれます。天神さんの参詣と芝居見物を一度に楽しめることも、街全体の強みでした。

明治の統計が示す「落語だけではない」人気

1907年の大阪市の統計では、芝居をかけた天満座の年間観客数は約9万7千人。国光席は約2万7千人、落語の杉ノ木席は約8千5百人でした。杉ノ木席は林家席から名前が変わった小屋です。

数字だけで芸の価値は比べられません。天満座は建物も大きく、演目も異なります。ただ、この差からは、当時の天満が「落語一色」ではなかったことが伝わります。

浪花節の人気、芝居の集客、落語の席の粘り強さ。複数の娯楽が同じ地域の夜を支えていました。

4. 吉本興業の出発点は、天満八軒の第二文芸館

この界隈を語るうえで外せない小屋が「第二文芸館」です。吉本興業の沿革によると、吉本泰三・せい夫妻は1912年4月にこの寄席を入手し、寄席経営の第一歩を踏み出しました。後に天満花月となる小屋です。

いま「吉本」や「花月」と聞けば、難波の大きな劇場を思い浮かべるかもしれません。しかしその始まりは、大阪天満宮の北門近くにあった一つの寄席でした。

夫婦はその後、ほかの寄席も買い集め、複数の小屋を運営する形へ進みます。1915年にはミナミの法善寺に進出し、「花月」の名が広がっていきました。

ここで年号について一つ留保があります。吉本興業は「1912年4月、第二文芸館を入手」としていますが、当時の史料を調べた研究では、買収の正確な年を確定できず、「第二」の呼び名が当時から固定していたかも明らかでないと指摘しています。

つまり、吉本興業の公式な創業の語りとしては1912年ですが、古い小屋の記録には未確定の部分も残ります。

それでも、吉本の寄席経営が天満から始まったこと自体は揺らぎません。現在の大きな興行会社の歴史が、天神さんの裏手にあった小さな演芸街につながっている。その距離感こそ、天満八軒を歩く面白さです。

5. 映画の時代、戦争、そして繁昌亭へ

大正期になると、街の娯楽は変わっていきます。活動写真を上映する館が増え、従来の寄席から映画館へ姿を変える小屋も現れました。

1920年の調査には、天満座、天満花月亭、浪花節の国光席と並び、八千代電気館という活動写真館も記録されています。

寄席、芝居、映画が近い場所で客を分け合う。天満八軒は、ある時代のまま止まっていたわけではありません。芸の流行が変わると、小屋の名前や中で見せるものも変わりました。

昭和に入ると落語の席は少なくなり、戦時下には興行を続けること自体が難しくなります。吉本興業の社史では、第二文芸館から続く天満花月は1941年に閉館したとされています。

戦後、上方落語の定席は大阪で長く途絶えました。落語家がいなくなったわけではなく、いつでも落語を聴ける専門の小屋がなくなったのです。

その空白を経て、2006年9月15日、大阪天満宮の北門近くに天満天神繁昌亭が開場しました。旧来の八つの小屋を保存・再建した建物ではありません。

天満宮が土地を提供し、上方落語協会や地域の人々が力を合わせて生んだ、新しい定席です。

昔の天満八軒と現在の繁昌亭を一本の線で結ぶなら、「同じ小屋が残った」ではなく、「芸を聴く場所が同じ界隈に戻ってきた」と言うのがふさわしいでしょう。

6. いま天満八軒を歩くなら、顕彰板から始めたい

天満八軒の散策は、Osaka Metro南森町駅かJR大阪天満宮駅を起点にするとわかりやすいでしょう。どちらの駅からも大阪天満宮は近く、繁昌亭へも徒歩数分です。

JR天満駅から天神橋筋商店街を南下して向かうなら、約15分を目安にできます。

まず天神橋筋商店街の南側、天二付近から大阪天満宮の表大門へ。境内を参拝したあと北門へ回り、天満天神繁昌亭の前にある「天満八軒歴史顕彰板」を見てみてください。

2017年に設置された板には、明治中頃の天満宮近辺の絵図も載っています。

いまの街並みを昔の小屋の配置と一対一で重ねることはできません。それでも、顕彰板で小屋の集まりを確かめてから北門付近の通りを眺めると、この場所が「天神さんの裏」だったことが実感しやすくなります。繁昌亭の入口が向いている通りは、かつて芸を聴きに来た人の記憶へつながる場所です。

時間があれば、境内北側の星合の池や、高座に立った先人を祀る高坐招魂社にも足を向けてみたいところ。後者は2017年に創建されました。

明治の寄席の建物ではありませんが、芸を受け継いだ人々への思いが、現代の境内に形を持っています。

八軒家浜とは別の場所

「天満八軒」と名前が似た「八軒家浜(はちけんやはま)」は、大川を挟んだ南岸、天満橋と天神橋の間にあった船着場です。

京都・伏見から来る三十石船の発着や、熊野詣の旅人の往来で知られます。こちらの「八軒」は、江戸時代に付近にあった八軒の船宿に由来するといわれます。

一方の天満八軒は、大阪天満宮の北門付近にあった演芸街。北岸には天満青物市場が広がり、舟運で物資が運び込まれましたが、「天満八軒」を八つの船着場の名前として使うのは誤りです。

神社の裏門、川沿いの市場、対岸の船着場。それぞれが別の場所にあり、参詣、娯楽、商い、旅を支えました。同じ「八軒」が付いていても、川の両側で違う歴史が重なっているのです。

まとめ

天満八軒は、大阪天満宮の裏手にあった演芸街の呼び名です。

もとは八軒茶屋に由来するとされ、明治期には落語の林家席、講談の宝来亭、女義太夫の南歌久席、浪花節の国光席、芝居の天満座など、多彩な小屋が集まる一帯を指すようになりました。

吉本泰三・せい夫妻が寄席経営を始めた第二文芸館も、この街の一角にありました。小屋の数も名前も時代とともに変わり、当時の小屋が軒を連ねる景観は残っていません。

それでも繁昌亭前の顕彰板と、2006年に生まれた新しい寄席が、天満と演芸のつながりを今に伝えます。

大阪天満宮を訪ねたら、表大門から社殿だけを見て帰らず、北門の外まで歩いてみてください。天満八軒は、そこで街の歴史として見えてきます。

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